2011/01/26(Wed)
新川の最上流部には新川開削に貢献した水野千之右衛門の碑があります。

その子孫は早くに途絶えたとされていますが、未だに北名古屋市教育委員会も
以下の写真のごとく碑を残して顕彰しています。

水野千之右衛門の碑

しかし、折角の碑ではありますが、どうしてこんなところに電気の支柱が立っているのでしょうか?
本気で顕彰する気はなさそうにも見えますよね。

水野千之右衛門の碑1

場所は、比良新橋上流右岸側です。

2010/09/20(Mon)

新川の地図(赤色のマーク) 江戸時代のこの地帯は、庄内川に一気に中小河川の水が流れ込みため、
洪水の常習地で、名古屋の城下町は繰り返し被害を受けていました。

これらの中小河川の水が庄内川に集まりすぎるのを防ぐために、
尾張藩と地元農民が協力して幕府から援助を受けて、
運河・放水路・バイパスなどの機能をもたせて掘削された人工河川が新川です。

時代は1700年代の後半、庄内川右岸で生活する「清須14ヶ村総庄屋」
吉野村の丹波義造を中心とした住民は、尾張藩に対して庄内川の治水を
求める嘆願運動を 展開します。

これを機に、庄内川の分水工事を実現して、治水問題を解決しようと藩主に
直談判する者が現れはじめた。

当時の尾張藩勘定奉行であった水野千之右衛門は、当時の藩主徳川宗睦
に建白書を提出し、具体的な方法と予算を示して治水工事を嘆願しました。

しかし、当時尾張藩の財政は窮乏していて、藩主は工事の実行に反対でした。

やがて、安永 8年(1779)の庄内川の大洪水に直面し、名古屋の町内にも
浸水被害が起き、徳川宗睦は、ついに工事の決断し、藩主近侍の
人見弥右衛門と水野千之右衛門にその担当を命じました。

しかし、水害の復興などで費用がかさみ、藩の財政状況はますます悪化する
一途でした。

治水工事には藩の1年分の収入でも間に合わないが、工事を途中で中 止させることのないよう
莫大な費用をわざと減額した予算を提出し、天明4年(1784)尾張藩と幕府の承認を得て着工が認められた。

工事は、現在の新川橋付近(三菱東京UFJ銀行尾張新川支店付近・清須市土器野本山)の
土器野新田庄屋役、伊藤権左衛門宅に本陣がおかれ実施されました。

工事は、味鋺村(現在・名古屋市北区)内の庄内川右岸堤を一部低くし、そこに洗堰をつ くって庄内川の水を分流し、
合瀬川や大山川、五条川などを合流させて伊勢湾まで約20kmにおよぶ川を掘ろうというもので、
洗堰から伊勢湾に至るまで、 200ヶ所以上の地点に分け、同時着工、突貫工事という方法で掘削しました。

なお、人見、水野両名は工事途中で予算の過小申告が発覚し、降格などの処分を受け たが、
尾張藩は、工事が完成するまで続行させ、最終的には、総工費40万両以上を費やし、天明7年(1787)に竣工しました。
 

出典: Wikipedia(一部修正)